旧田代町周辺には中新世後期から更新世にかけての堆積層に生成された鉱床など地下資源が非常に多い地帯です。越山区域にも規模が小さいながらもいくつか存在しており、ここではその概要を紹介します。
鴨沢は蛭沢対岸の桂岱から早口字千歳に至る経路にあたります。鉱山物は鉛。 享保十五(1830)年成立の『六郡郡邑記』には、「鴨沢鉱山宝永三戌(1706)年より山 正保四(1714)年止む」とあります。この「正保」については、1644〜1647年まで使われた江戸時代初期の年号であり、1711〜1714年に使用されていた「正徳」の誤りであろうと言われています。 大正版『秋田県史』第三冊に所収されている『秋田領内諸金山箇所年数帳』によれば山師(開発請負者)は大館町の商人である伊多波(松坂屋)武助。中世の半ば頃、当時の久保田(秋田)藩は生産力が落ちた領内の鉱山の経営に行き詰まり、領内の商人に請山として開発を請け負わせた内の一つです。 当時、武助が関与した田代の鉱山は多く、長間獄古金山、比立内鉛山、逆さ沢鉛山、外金堀鉛山、家戸沢見立鉛山、小鷹城沢見立鉛山、砥沢見立鉛山、めんとり沢古鉛山、矢櫃沢鉛山、鴨沢鉛山、平登内鉛山、冷水沢鉛山、ほふき原鉛山などがあります。 また『郷土史』には鴨沢鉱山について、「鴨沢は昔から「岩瀬のズゾ」と称する古田氏一族が鉱山を開き、赤川の北林与市などが十ノ瀬山の中心部を目指して掘り進んでいるが、間口を掘っているに過ぎない」と記述されています。 |
山瀬ダム口から北西5km余りの距離に位置し、岩瀬川本流に注ぐ赤倉沢にあった硫黄鉱山です。 明治三十六(1903)年五月に山梨県出身の長沢市蔵に試掘許可が与えられ、二年後の明治三十八(1905)年十月より採掘鉱区となりました。 明治四十二(1909)年二月に鉱業権が小林要蔵・長沢甲治郎に譲られ、同年六月に松平良太郎ほか一名の所有に移りました。 大正四(1915)年七月に越山小学校赤倉分教場設置。設置当初は教師1人、生徒16人といった規模でしたが、昭和初期の最盛期には41人の生徒がいました。ちなみにこの時期の鉱山の人口は三百人超ともいわれています。 昭和十四(1939)年岩手県の松尾鉱山株式会社に売られ、昭和十一(1936)年に大割沢硫黄山で鉱区面積を大幅拡張する旨の新聞報道がなされましたが、昭和十六(1941)年に資源枯渇のために閉山となりました。 昭和三十(1955)年発行の『日本鉱産誌』には、坑内掘、精錬炉四基、硫黄1797tを産出とあります。採掘手段は、当初手掘りでしたが最盛期には三台の削岩機を使って手掘りと併用されました。 赤倉鉱山は田代岳古期成層火山の火口付近に開かれた鉱山で、鉱床は田代岳火山の噴出物の中の交代鉱床(岩石の変成作用に際して原岩の化学組成が著しく変化することにより生成された鉱床)です。この噴出物は古期成層火山の噴出物で溶岩・凝灰角礫石・凝灰岩などの互層からなり、鉱山周囲の旧火口壁によく露出しています。旧坑口付近には粘土化した岩石の中に硫黄が含まれる産出状況が確認できます。鉱体は全体的にはひとつの層状状態になっており、集塊岩、堅硬で緻密な溶岩、凝灰岩などの中に生じた層状の破砕帯を交代したものと考えられています。 |
平戸内鉱山は岩瀬沢の現国有林地内にあったとされています。鉱産物は鴨沢鉱山と同じく鉛。 『秋田領内諸金山箇所年数帳』によると鉱山の開発は正徳二(1712)年、請負者は上記の鴨沢鉱山と同じく大館町の商人・伊多波(松坂屋)武助による開発です。 『六郡郡邑記』には平戸内鉱山について「平戸内鉱山 六軒」とあります。当時は鉱山の開発のために鉱夫などが住む集落があったものと思われます。 『秋田風土記』には「平戸内鉱山昔ありと云、今はなし」とあり『町史資料』に所収されている『秋田県諸鉱山沿革』によれば文政七(1824)年までは稼業されていたそうです。 越山地域にある他の鉱山と同様、操業自体短期間だったことから考えて埋蔵量自体も少なかったようです。 |
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